天下獲りから崩壊までの軌跡その1

ブラウザ三国志mixi9鯖1期で天下統一を成した我が「土佐藩」。2期ではドタバタを繰り返した挙句、いともあっさりと崩壊した。その天下統一と崩壊までの軌跡を総括してみたい。

1期の土佐藩@南東にとって最初の試練は「謙虚な変態同盟」との戦いであった。領地争から奇襲を受け、ライト氏が落城し、盟主のりーく氏も落城寸前まで陥った。(これ以降、本拠地が中央側に出ていたりーく氏は補佐となる。)すでに中央付近から南東一帯に大勢力を築いていた土佐であったが、少人数ながら重課金で知人同士の集まりである変態同盟に大苦戦を強いられた。この時、土佐の味方として参戦してくれたのが中央に勢力を築き曹操のN城を囲んでいた「魏武(盟主:星を継ぐ者=Tan-G氏)」であった。

開始当初から土佐藩@南東は天下統一を目指しており、リーダーのりーく氏は積極的に諸同盟と外交を行っていた。この時、友好を結んだ同盟の1つが魏武であった。参戦してくれた魏武対してりーく氏は「土佐の天下統一は諦め、魏武の曹操攻略に協力する」と公言するほどだった。しかしこの魏武との蜜月関係によって、土佐はこの数日後におこるドワクエの奇襲攻撃に巻き込まれるのである。

ドワクエとの戦争の発端は、魏武盟主の対応のまずさから起こったものだと言う。その経緯及び内容についてはドワクエ盟主であったかわんご氏のブログに詳しい。前述のように中央寄りだった補佐のりーく氏は早々落城したものの、精力的に地下活動を続けていた。ほかにも数名の同盟員が落とされたが、土佐側もドワクエ同盟員を落としたり、かわんご氏の本拠の隣接地をとったりするなどして反攻し、なんとか撃退することができた。盟主を交代しつつ、最後まであきらめずに抵抗する姿勢を見せた効果的だったのだと思う。

戦後、土佐はその死闘及び後の交渉過程でドワクエと友好を深めていく一方で、戦争の発端でありながら何もできなかった魏武に対しては不信感を抱いていた魏武も玲央氏が指揮をとって抗戦していたらしいが、謙虚な変態同盟戦で防衛戦を経験している土佐に比べて動きは鈍く、土佐側から見ればただ成すすべ無くおろおろとしているだけのように感じた。

終戦後りーく氏はドワクエに負けない強固な組織作りとして、はじめにこの魏武に目をつけた、前述のようにそれまで魏武に協力すると明言していたものの、戦後は完全に見切りを付けており「魏武に合併を迫り、応じなければ攻め滅ぼす」と方針を転換していた。この方針には正直驚き、また戦争もあるかとおもったが、意外にあっさり合併が決まった。これにより同盟名から南東が消え、「土佐藩」となった。

旧土佐にとってこの合併は吸収であり、合併後も幹部ポストは旧土佐が独占し(ただし、NPC砦攻略は玲央氏が担当)。それぞれどちらの出身であるか、微妙な上下関係が続いていた。そんな中で、魏武出身者の不満が爆発したのは対m-SRVF戦であった。ドワクエと共闘して攻撃していたm-がドワクエ側に降伏し、これを受け入れたドワクエから土佐へm-への攻撃停止願い(=不可侵申請)を当時盟主のライト氏が即承認した時である。

そのまま戦闘を続けていれば、多くのm-の城を配下にし拠点も奪えたであろうが、ドワクエの仲裁を無視することで開戦の口実与えてしまうことを懸念しての判断だった。合併後の土佐藩は総合ランク1位を維持していたが、戦争になった場合ドワクエに勝てる可能性は決して高くなかった。ただし、この停戦によりドワクエがm-を吸収して、ランクでも戦力でも差をつられることとなったことも事実である。

元々m-と領地隣接していたのは旧魏武がほとんどで、侵攻作戦もハゲネコ氏らの旧魏武のメンバーが中心で行った。序盤から圧倒し、隣接をとって車を発射したところで停戦(不可侵締結)となったことで、チャットに「なぜ事前に相談が無いのか」「理由を説明してほしい」などから「そもそもなぜ幹部に魏武出身者がいないのか」(この後、真実氏とTan-G氏が幹部入り)「ドワクエの言いなりではないか」など様々な不満が書き込まれた。

口論を避けるため意図的に事態収拾(事情説明)に動かなかったライト氏とりーく氏に対して不満の声はどんどんエスカレートし、罵詈雑言ともいえるような内容になっていった。またドワクエ幹部が土佐のチャットに参加した際には、ドワクエ幹部に対しても「あなたたちを信用できない」などと発言する者もおり、盟主らが火消しに回ることとなった。これらにより、旧土佐出身のマイセン氏らは合併を解消し土佐と魏武は再分割するべきだと主張。この頃から、旧土佐の幹部陣は徐々に発言の場や前線から姿を消していった。

1期の土佐藩最後の戦いは普陀落戦であった。すでに成都を所有していた普陀落に対しドワクエが侵攻を始めたが、普陀落側としてナの国も参戦したことで膠着状態に陥っていた。ドワクエ側から土佐にが「成都は獲っても良いので参戦してほしい」と要請があり、参戦が決まった。

この時、「逆に普陀落と共闘しドワクエ側に攻め込むべき、千載一隅のチャンスだ」という意見が旧魏部出身者を中心に強硬に提案されていたものの、盟主ライト氏の判断によりドワクエ側に味方することになった。理由としては、そもそも土佐とドワクエは盟友として共闘して城を獲り、最後にその城を賭けて決戦をするというのが初期に交わした約束であり、ドワクエ側もここまで誠実に履行している。こちらが破るのは信義にもとる、ということであった。ちなみに旧魏武出身者がその約束をはっきりと聞いたのはこの時が初めてだったかもしれない。

普陀落には難なく勝利し成都を獲得するも、この時点でりーく氏が補佐を辞めさらには拠点をすべて廃棄して二度とログインすることはなかった。補佐の後任には、魏武出身の真実氏が選ばれた。魏武出身者が選ばれたのには、この時点で多くの旧土佐出身の上位者がやる気をなくしていたからというのもあるが、真実氏は同盟員をうまくまとめ多くから信任を得ていた。一時は崩壊寸前だった土佐内部だが、最後までいけたのは真実氏の力が大きい。

その後ドワクエと互いの3つの城をかけて武将ジャンケンし、土佐藩は天下統一をなした。決して突出した存在でなかった土佐藩が天下統一できた要因の多くは、りーく、ライト両氏の外交手腕、そして外交によって相容れないと判断した同盟には躊躇なく先制攻撃を仕掛けるという決断力・行動力が大きかったと思う。



つづく